不登校について真面目に考えてみる

私が学生だった頃は不登校ということを公にするとか、それについて何かを論じるという事すら許されないような

雰囲気がありました。つまり学校は通って当たり前であって、「通わない」という選択肢は存在しませんでした。

私が通った中学校にも今にして思えば不登校だった生徒が何人かいたのですが、彼らが学校に来ない理由は

先生たちによってどこかもみ消されたようになり、理由を知る人はほとんどいませんでした。

さらに私の場合は秋田県内でもより田舎といえる地方でしたので、不登校を「包み隠すもの」とする雰囲気は

余計に強く感じられました。

 

 

そんな時代背景と、私自身に進学と勉学の強い意志があった事から、どんなにつらいことがあっても学校を休むことは

ほとんどない学生時代を送りました。

しかしながらそれはやせ我慢であったことは疑いようもなく、心と体に自覚できないほどの相当強いストレスを与えたようで、後々の人生でその時の後遺症と思われる症状に悩まされることになります。

 

昭和やそれ以前だと「努力」「根性」「忍耐」などの、今や重苦しささえ感じられるこの言葉が賞賛されるのかもしれませんが、

それは果たして万人に適用するのか? ということは慎重に見極めなくてはいけないと思っています。

 

フリースクール勤務時代に思ったことは、現在と以前では同じ不登校という状態であっても、

事情が様変わりしているように見えました。

私が学生だった頃は学校にいけない理由としてダントツに多かったであろう理由はいじめ(人間関係)だったように思います。

または体調面での不安など健康上の理由もありがちでした。

 

 

しかし今は学校に行かない理由が多岐にわたります。

いじめや健康不安などはもちろんの事、それ以外に学習障害や発達障害による学校への適応の難しさ、

家庭環境の厳しさから勉強どころではない状態に陥ったり、教師によるいやがらせ(!)などという

とんでもない理由もあったりします。

 

現在の日本の学校というシステムについて思うことは、集団の時代から個の時代へと移行しつつある今、

必ずしも学校だけが最適解ではないように思います。学校そのものを否定しているわけではありません。

学校が合う子どもにとっては必要な場所で、そこでしかできない唯一無二の経験がたくさんできる場所です。

しかし「学校に適応できない=悪」という考え方は、もはや時代遅れと言わざるを得ないと思っています。

これからの教育は皆が一律に同じものを受け取るのではなく、個人個人がそれぞれに合ったものを受け取るのが理想では?

そのためには社会がもっと変わる必要もあるでしょうし、様々な受け皿も必要となってきます。

 

教育は何も現役の学生だけの問題ではありません。

究極どの世代のどんな立場の人にも関係がある、と言えるのではないでしょうか?

社会の一員として自分が果たす役割を考えてみるのも面白いかもしれませんよ。