無条件で受け入れられるという事

保健の先生は私よりも10才くらい年上の、とっても美しい女性で、ちょっと年の離れた良いお姉さんという感じの方でした。

人柄的にはとても優しく、でもサバサバとした物言いで、優しさに裏打ちされた良い意味での厳しさもあり、

今思えばとてもバランスの取れた先生でした。

 

その先生に私は自分が困っている症状を説明しました。

すると先生はそれはきっと精神的な事が原因だからと、心療内科を受診することを勧めてくれました。

実は中学時代私は自分でもそれを疑って、親に精神科に連れて行ってほしいと一度だけ訴えたことがありましたが、

私が中学生だった約30年ほど前は今では考えられない事ですが、田舎だったこともあり、

精神科や心療内科への偏見がまだ根強く残っている時代でした。

 

そのため病気が発症してすぐに病院に行くことは結局できませんでしたが、高校に入り、保健の先生との出会いでようやく

とても良い精神科の先生と繋がる事ができ、結果的に言うと病気の症状は3年間で全快しました。

 

保健の先生にはその他にも、病気の症状が原因で授業が受けられない時など、どんな時でも保健室を訪ねたときは快く受け入れてもらいました。嫌な顔や厳しい対応をされたことは一度たりともなく、これこそが無条件の愛というものなのではないかと思えるほどでした。無条件に人に愛されたり、受け入れてもらうという事は、例えば親子間や師弟関係などでは人によっては当たり前と捉える方もいるかもしれません。しかしこの「無条件に」という事は意外と難しいのではないか?と私は思うのです。

 

親子関係においても「いい子にしていたら」「テストで100点を取ったら」「親の言う事に従ったら」という制限や条件がついた

このフレーズは未だによく聞かれるのではないでしょうか?

 

教師と生徒の関係においても「先生の言う通りにしたら」「学業や部活動の成績がよかったら」などやはり何か制限や条件を付けて

生徒を見ている先生は多いのではないでしょうか?

 

私も今まで生きてきて、無条件に受け入れてもらうという経験ができたのは、高校時代の保健室だけだったように思います。

中学時代はいくら先生たちに訴えても、ほかの生徒の目があるから、というような返答ばかりで、

私の都合(しかもとっても困っているのに)にはまるで耳を貸してくれませんでした。

他の生徒の事は考えても、私の事は考えてくれないんだね、とすごく悲しい気持ちになりました。

ですから、高校に入ってもきっと分かってくれる先生はいないだろう、と思っていたのに、

保健の先生は本当に、本当にすべてを受け入れてくれました。

今でも先生には感謝してもしきれないほど、ありがたく思い、いまだに大好きな先生です。

感謝以上の言葉って何だろうと思うほどです。

 

私が今不登校支援をしたい理由のひとつが実はここにあります。

つまり私の高校時代に保健の先生が私にしてくれたことを、今度は私が先生の立場になって

そっくりそのまま必要な生徒にお返しをしたい、時を超えて思いを巡らせていきたい、そう心から願っています。